現代社会最高の哲人
1909年
ドラッカーは、11月19日オーストリアの首都ウィーンに生まれる。
1927年
ドラッカーは、早く生活費を稼いで、経済的に自立しようと考えた。
1929年
ドラッカーは、フランクフルト大学に移籍。マーチャント・バンクに証券アナリストとして就職したが、ニューヨーク株式市場の大暴落により会社は倒産。ニューヨーク株式はさらに値上がりするという内容の論文を発表していたドラッカーは、これ以降、数式モデルによる予測を一切止める。
1931年
ドラッカーは、フランクフルト大学の国際法・国際関係論の博士号を取得。このころからナチスの権力掌握を予想し、しばしばヒトラーをインタビューする。
1933年
ドラッカーは、執筆した論文がナチスの不興を買うことを確信して、イギリスに逃れる。事実焚書処分となる。ロンドンで、大手保険会社の証券アナリスト、マーチャント・バンクのエコノミスト。しかし、「人間の本質により関心があった。だから研究したいと思ったし、書きたいと思った」。
1934年
ドラッカーは、ケンブリッジ大学で開かれた経済学者ジョン・メイナード・ケインズのセミナーに参加するも肌に合わず。自分の関心が、「商品の行動」よりも「人間の行動」にあり、経済学者には向かないことを悟る。
1937年
ドラッカーは、イギリスの大手新聞社数社に記事を送る契約を結び、アメリカに移住。
1939年
ドラッカーは、ファシズムの起源を分析した処女作 『経済人の終わり』 を刊行。サラ・ローレンス・カレッジ(ニューヨーク州)の経済学・統計学の非常勤講師に就任。時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルが激賞。同書は、ナチスがヨーロッパのユダヤ人を皆殺しにする道をたどらざるをえなくなること、いずれヒトラーとスターリンが条約を結ぶことを予告。事実、六カ月後には独ソ不可侵条約が結ばれ、やがてユダヤ人虐殺が始まった。
1942年
ドラッカーは、よりよい社会への改革の道を模索した『産業人の未来』 を刊行。ドラッカー社会学の原点となる。
1943年
ドラッカーは、『産業人の未来』 を読んだゼネラル・モーターズ(GM)社の幹部から、同社の経営方針と組織構造の研究を依頼される。これが、初めてマネジメントに関心を持つきっかけとなった。ドラッカーは18ヵ月をかけて、すべてのマネージャーにインタビューを行なった。なかでもGMの再建と改革に腐心した会長のアルフレッド・スローン・ジュニアは、ドラッカーに多大の影響を与えた。この年、アメリカ国籍を取得。
1945年
ドラッカーは、GMの研究が『会社という概念』に結実。GMを現代社会における代表的な機関として位置づけた。発売と同時にベストセラーとなり、フォード社の改革の教科書、組織のマネジメントを研究する世界初の書となった。しかし学界からは、経済学と政治学の余興としか見られず、有力者に「その才能を、もっとちゃんとしたテーマに向けるよう祈る」と諭される始末だった。
1950年
ドラッカーは、『新しい社会と新しい経営』を刊行。ニューヨーク大学大学院経営学部教授に就任(~1971年)。
1954年
ドラッカーは、『現代の経営』(上) 『現代の経営』(下) の刊行によって、「マネジメント」が誕生した。この発明により、人々はマネジメントを学ぶことができるようになった。1950年代から60年代にかけての「マネジメント・ブーム」のさきがけとなる。
1959年
ドラッカーは、『変貌する産業社会』を刊行。同書で、ドラッカーは冷戦に対する見方を鮮明にした。「共産主義は悪である。人の嫉妬心や憎悪という罪を原動力にしているからだ」。初めて来日し、「経営の水平線」をテーマに東京・大阪などで講演。東洋レーヨン、立石電機(当時)、興亜石油などを訪問。水墨画と着彩画各一点を購入(山荘コレクションの始まり)。
1964年
ドラッカーは、『創造する経営者』 を刊行。後に“ABC会計”として発展した事業診断の手法を提唱し、「事業とは何か」を明らかにする。
1966年
ドラッカーは、『経営者の条件』 を刊行。成果を上げるための方法を説く。日本政府より「産業経営の近代化および日米親善への寄与」の功で勲三等瑞宝賞を受賞。来日して講演。
1969年
ドラッカーは、『断絶の時代』 を刊行。本書によって、現代社会の哲人としての名声を不動にする。イギリスの首相マーガレット・サッチャーは、本書をもとに「民営化」を推進し、その影響は世界中に広がる。
1971年
ドラッカーは、クレアモント大学 大学院社会科学部教授に就任。
1974年
ドラッカーは、『マネジメント』(上) 『マネジメント』(下)を刊行。マネジメントの課題とその方法を明らかにしたドラッカー経営学の集大成。今日も、大学、ビジネススクールの教科書として使われている。
1976年
ドラッカーは、『見えざる革命』 を刊行。高齢者の健康や住居しか論じられていなかった当時に、突然、人口構造の激変とその様相について論じる。年金基金がアメリカの大企業の支配的所有者になり、アメリカ唯一の資本家になったことを指摘。経済学者のケネス・ボールディングが書評で、「アメリカ最高の思索家」と激賞。
1979年
ドラッカーは、『傍観者の時代』を刊行。
1980年
ドラッカーは、『乱気流時代の経営』 を刊行。「乱気流の時代にあっては、経営管理者にとって最大の責任は、自らの組織の生存を確実にすることである。組織の構造を健全かつ堅固にし、打撃に耐えられるようにすることである。そして急激な変化に対応し、機会をとらえることである」の一文に始まる本書は、あたかもバブルの時代を見透かしていたかのようである。現在流行のキャッシュフロー経営を、本書はすでに説いていた。来日し、同書をテーマに講演。
1985年
ドラッカーは、『イノベーションと起業家精神』(上)『イノベーションと起業家精神』(下) を刊行。イノベーションと起業家精神が、天才のひらめきや天賦の才ではなく、誰でも学び実行することができるものであることを明らかにする。来日し、同書をテーマに講演。
1986年
ドラッカーは、『マネジメント・フロンティア』を刊行。「ドラッカー・コレクション、水墨画名作展」を東京・大阪など4会場で開催。来日し、「変貌する世界経済と日本へのインパクト」等のテーマで講演。
1989年
ドラッカーは、『新しい現実』を刊行。21世紀がすでに始まっていることを明らかにする。ソ連邦の崩壊を予告し、世界的な大反響を呼ぶ。来日し、同書をテーマに講演。
ベルリンの壁撤廃。米国でスーパー301条発動。
1991年
ドラッカーは、『非営利組織の経営』 を刊行。非営利組織の増大を予告し、そのマネジメントのあり方を明らかにする。「ニューヨーク・タイムズ」紙が、「現代において最も刺激的な経営思想家という評判をもたらした、あの力強くて思慮に富み、心を解きほぐすようなアドバイスを、非営利組織のマネージャーたちも享受できる魅力的な本だ」と激賞。
1992年
ドラッカーは、『未来企業』 を刊行。激動の時代を生き残るために、ビジネスマンが心得ておくべき情報や知識を明らかにする。この年、米国IBMとシアーズ・ローバックがアウトソーシング事業の新会社を設立。WWW正式発表。金子郁容『ボランティア』発表。銀行合併でさくら銀行、あさひ銀行が成立する。
1993年
ドラッカーは、『ポスト資本主義社会』 を刊行。資本主義社会の後に来るものが知識社会であることを明らかにする。来日し、同書をテーマに講演。「今後はいかに知識労働者の生産性を向上させるかがすべてのカギ」と指摘。同年、40年以上を越える執筆活動から著者自身が選んだ論文をまとめ 『すでに起こった未来』 を刊行。本書においてドラッカーは、自らを「社会生態学者」と規定する。米国ゴア副大統領が“情報スーパーハイウェー構想”を提唱。ドラッカーの説く情報化の推進を経済政策の柱とする。
1995年
ドラッカーは、『未来への決断』 を刊行。いま起こりつつある変化を分析し、ビジネスマンが、いつ、何を、いかに行うべきかを説く。
この年、マイクロソフトが「 Windows95 」を発売。世界中で1億本を売る。
1999年
ドラッカーは、『明日を支配するもの』 を刊行。世界17カ国で発売され、ベストセラーとなる。ビジネスの前提が変わり、現実が変わったことを明らかにする。日本の人口は21世紀末に5000万あるいは5500万人に減少すると指摘するなど、先進国で人口構造の激変が続いていることを警告。現在、カリフォルニア州クレアモントに住む。
ドラッカーを先駆者とする「ナレッジ(=知識)・マネジメント」が注目を集める。
2002年
ドラッカーは、『ネクスト・ソサエティ』を刊行。ビジネス環境の著しい変化の中で、組織とそこに働く人々に、どのような変化が起こりつつあるかを洞察。「一つひとつの組織、一人ひとりの成功と失敗にとって、経済よりも社会の変化のほうが重大な意味をもつにいたった」と指摘し、世界的なベストセラーとなる。
2004年
ドラッカーは、『実践する経営者』を日本で刊行。「ウォールストリート・ジャーナル」に寄稿した論文から直接経営にかかわる助言を厳選。とくに中小企業経営者から、実践的な示唆に富むと評判を呼ぶ。
2005年
ドラッカーは、11月11日午前7時20分(現地時間)、96歳の誕生日を目前にして永眠。