
ドラッカーを日本に紹介した人
(1927年6月22日-2022年9月3日)
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この方なしでドラッカーは語れません。
ドラッカーを日本に紹介したのは、弊社の顧問、野田一夫先生です。
アメリカでは家族で深い親交がありました。
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初めてドラッカーの著作を翻訳
僕は、ドラッカーの『The Practice of Management 』を翻訳し、
ドラッカーに手紙で了解を求めて僕が命名した『現代の経営』は、1956年に出版された。
この本は、予想外に売れ、ドラッカーの名は短期間に日本の産業界に広がった結果、
早くも1959年夏にドラッカーを初めて日本に招いた
「第一回ドラッカー・セミナー」が開催されるや、
箱根の冨士屋ホテルの会場は、大勢の経営者で満員となる盛況でした。
最初のドラッカーとの会話
僕は、そのために初来日した彼と、東京のホテルのロビーで会い
「プロフェッサー・ドラッカー」と呼びかけたところ、
「私はプロフェッサーではない。コンサルタントだ、
したがって、ピーターと呼んでほしい、私もあなたをカズオと呼んでいいか…」と、
これがドラッカーと僕との最初の会話です。
僕は彼の以外な親しみやすさはともかく、
当時すでにニューヨーク大学で非常勤ながら教壇にっていたはじの彼が、
むしろコンサルタントであるということにもっとも誇りを持っていたことに、
先ず驚かされたものです。
ドラッカーの助言
初来日した彼が帰国する直前、彼は僕に「…カズオ、なるべく早く米国の大学に来なさい。
そのために一つ大切な助言がある。
米国では年齢や地位を問わず、親しくなった人同士はそれぞれ愛称で呼び合う習慣がある。
だから、米国の大学へ行って有名な教授に会って話を始めたら頃合を見てなるべく早く
『May I Call you 〇〇〇?』と言いなさい、相手は必ず『Why not ?』と言う、
その後お互いのコミュニケーションは俄然良くなる。米国の最も良い習慣だ。
是非忘れないように…」と親切な助言をしてくれました。

(左から、野田先生とドリス夫人・ドラッカーと野田先生の奥様)
ドラッカーとの交友
彼と別れて数か月後、突然マサチューセッツ工科大学(MIT)から僕に、
「企業経営”の国際比較研究の協力要員として招きたい」というオファーがあったのです。
ドラッカーが私を紹介してくれたに違いないと思っています。
私は新婚直後の妻と共に1960年の夏に渡米し、
結局2年間マサチューセッツ工科大学で研究生活を送ることになりましたが、
着任するや否やドラッカーの助言を実行に移したことが役に立ち、
短期間で多くの関係者と和やかな人間関係をつくることができました。
ドラッカーの自宅へ訪問
ドラッカーはその頃ニューヨークに住んでいたので、僕は彼の家を訪ねました。
最初の訪問時には、事前にドラッカーから
「ドリス(夫人の名)がトシコ(=敏子、僕の妻の名)の着物姿を見たいから…」というので、
着物持参でドラッカー家を訪ね、早速妻に着替えさせたところ、
喜んだドリスは敏子と一緒に隣近所の親しい家々に
彼女の着物姿を見せに連れて行ってくれました。
その晩我々が泊めてもらった部屋は、昔ドラッカーが仕事部屋にも使っていたのか、
部屋の隅の小さな机の上に置かれたいたいかにも時代物のタイプライターを見た時、
僕の心にはドラッカーの暖かい人柄がつくづく感じられました。
野田一夫 『文明とマネジメント』(一部)より

日本経済新聞に掲載
日本に来たドラッカー 初来日編

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□ ドラッカー学会顧問 野田先生
☑ 山下 淳一郎